[ エッセイ ]
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本当は、三千年もない歴史を越えて、強くなるために 《その4》

伝統武術の強さといってもそう単純ではありません。正確を期すと、現代社会では強さを発揮する機会がほとんどない、ということです。《その3》でも少し触れましたが、現代社会で武術の在り方がいまだにマッチしているか、それが問題です。つまり、時代とともに武術に対するニーズも、武術自体の姿も変わってきている、ということです。愛好しているのが伝統武術ということは、裏を返していえば現代にはマッチしていない可能性が高いのです。生きている化石的な存在です。そのことは認識されなければなりません。悲しいかなそれは現実です。例えば、武器術が好まれずほとんど練習されないのも、その証左です。スポーツ格闘技に持ち込んでも通用しないことも然りです。もっといえば、軍隊や警察などの戦闘術や学校教育/体育での伝統武術の位置を確認すればその答えは一目瞭然です。中国にしても、共産党政府が健康太極拳を制定し、表演競技や散打競技にシフトしたのも、時代の流れです。伝統武術の習得に関しても、お偉い衆が名誉や集金を目的に新しい套路をバンバン編成しています。ということになれば、珍品骨董品か絶滅寸前の希少種として細々と生きながらえていく定めなのでしょうか。これからの未来はあるのか………、明日はどっちだ、死して屍拾う者なし、天下ご免の向こう傷、助さん格さん懲らしめてやりなさい………。心意倶楽部内部での話ではありますが、他派の方にも参考になるかもしれません。また、まったく逆に全然ピンと来ないこともあるでしょう。まあ、お気になさらずどうぞ。

関係各位に異論はないと思うのですが、心意倶楽部の存在意義は心意の正統を学ぶという一点にあります。初心の頃には各人の状態によっては、前置きをした上で付け足すものもありますが。中国の学習では王一族のチェックが常に入ってきます。透明性というか、系統に私見や異物を混入させないためです。練習者の受ける印象はそれぞれ違うかもしれませんが、一応はそのようなスタンスで心意を追いかけています。ついでにいえば、誰もが全伝を受けることは困難極まりないという前提です。特に青年世代も中盤を越えれば物理的にも難しいのは当たり前です。もちろん、真伝であることは間違いありません。組織の運営では、昇段昇級や上納などの集金システムもありませんので、あえて含みを持たせないのです。媚を売るような思わせぶりもありません。同時に、現代に合ってるかどうかなど、知ったことではありません。そういう態度が人気のなさにつながっているかもしれませんが。その代わりといってはなんですが、練習者それぞれの目指す技術体系を漠然としたものでいいから考えてもらっています。簡単にいえば、棍か刀か好きな武器の操作を最高峰の頂に置いて、それを目指して徒手から練習しましょう、ということです。実は重要なことなのですが、ここではさらっと流しておきます。

心意の強さを現代社会で誰が見ても分かるような感じで示すことは基本的にはできません。それはまさしく犯罪行為と隣り合わせになったり、社会的制裁の対象になりかねないからです。係争を収める手段として武術を用いることは得策でないことは《その3》での事例の通りです。数少ない出番というか、その意義が発揮されるのは、広い意味での「自己防衛」に係る領域です。セキュリティやサバイバルといったほうがいいかもしれません。いわゆる「護身術」といったような狭義での防衛術だけではありません。その上で、できる限り反社会的にならない配慮が必要ですし、事後の社会的責任や法規的処置から一方的に逃げてはいけません。自分のケツを拭くことも要求されます。それができないのであれば心意を習得する資格はありません。人間的な成熟度が要求されます。心意では現代社会には馴染まない武器術を根幹に技術体系を組んでいます。徒手武術もかなり厳しい使い方といえます。安全ではありませんし、競技には向いていません。それらを現代にマッチさせるような変更をおこなわないこともここで宣言します。それゆえに、運用する側に自重というか慎重な取り扱いを求めるのです。心意を操ることに限定すれば、浮世離れというか、妖怪人間のように闇にまぎれて生きる? ノリです。安易に誇示したり、社会的な認知や商業主義に係わる名声を得ることは目的ではありません。このあたりが保守的といわれる心意の、保守たるゆえんの正体です。

さて、本稿の要約としては、心意自体の持つ術の完成度や危険性を認識したうえで、安易に用いていはならない、ということです。しかし、逆に用いることなどありえない、とタカをくくってしまってもいけません。心意を操る者は静かに冷静におしとやかに、あってはならない出番に備えなければなりません。

# xinyi-club : 2006年1月22日