[ エッセイ ]
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本当は、三千年もない歴史を越えて、強くなるために 《その9》

このシリーズタイトルには実はあまり深い意味がありません。娑婆リサーチでは中国三千年ではなく、中国四千年の歴史、と言われているようです。ちょっとハズしてしまったようです。でも気にしないぜ! とさらに話は続いていきます。

さて、基本的なことと申せばいいでしょうか、当たり前以前の問題として目を向ける必要がある筋の話があります。「なぜ武術をやってみたいと思ったのですか」というような動機や理由です。意外と明確に答えにくいのではないでしょうか。面白そうだから、興味があるから、強くなりたいから、と漠然としている感があるかもしれません。自己防衛や危機管理といった切実な動機はそれほど聞くことはありません。はたして自身が武術を愛好しようとするエネルギーは何なのか、ということです。言葉にならないことを少しばかり考えてみましょう。無意識へ探求というか、「わたしの知らないわたし」の発見があるかもしれません。「武術心理」の一端です。

実感がないかもしれませんが、端的にいえば「死」に対する抵抗があなたを武術に駆り立てているのです。「つよくなりたい」とは、生きとし生けるもの誰もが避けられない死に対する闘いのために発動する最も原理的な心理です。子どもがヒーローものに魅かれるのも、正義が悪を殺すのが快感であることが誰にでも、特に男性にある傾向です。武術で、名称などに勇猛な生物がチョイスされるのも納得できます。シンボリックに「力」と思われる対象への傾倒です。ステータスシンボルに憧れたりするのも、ほぼ同じところに根ざしています。まさにDNAに刻まれたコードが発動しているのです。

武術の実践にとって最も重要なことは「死」との対峙です。関わり合いともいえます。さて、どのように思われますでしょうか。平和な日本では、あまりピンと来ないかもしれません。この星のどこかで個人的な感情を介さない殺し合いが繰り広げられているのは、遠いところでの話ですか。もしくは愛好とはそんな重いモノではない、というような認識もあるでしょう。うっちゃけ、今の年齢や生活では特に意識できないこともありえましょう。この社会は命の尊さを訴え、口にすることは少なくありません。その一方で、死に関してはひた隠しにしようとしていないでしょうか。我々はもれなく死にます。それなのに、死と向き合うことはあまりありません。やや脱線しますが、命あるものを自らの命のために死に至らしめるしくみを、今更ながらタブー視しているように思います。釣った魚を食べるのは残酷だ、活き造りのイカの目が怖いとか、賢いクジラを殺すのは野蛮だ、などです。

さて、自分の死を意識するのは楽しいことではありません。しかし、心理学的には否定されるものではありません。小さい頃に死んでしまうことがとてつもなく恐ろしく思ったことがある人もいるのではないでしょうか。残酷なシーンを見せたりするのは別として、やはり子どもであっても自分の死に想いを馳せるのは否定されるものではありません。周りの大人がサポートして話し合うこともお薦めです。というか、青少年の重大犯罪が問題となっている昨今、緊急に展開する必要があるミッションだと思います。

武術の実践では、自らの死に対する念い(おもい)が存在することが重要です。違ったいいかたをすれば、技を練習する際には「決死」の境地で臨むことです。自分の死を目前にイメージして拳を打つことです。もしくは、絶対に守らなければならない家族を生かすという決意で、技を繰り出すのです。殺らなければ殺られる、ではありません。相手をどうのこうの、ではなく自己の悟りです。何かを崇拝するわけではありませんし、精神論や道徳的な教えも介在しませんが、武術と宗教の共通する点はこのあたりにあります。健全であり、バランス感覚を駆使できること、正統な指導を受けることなど条件はいろいろ必要ですが、武術で「強くなる」とは自分の死への対応の仕方が変わるということです。それは生きとし生けるものがとてつもなく生きることに執着して、いろいろな課題に挑んでいくことにつながります。困難を克服する糧になりえるのです。死を恐れない者は何にも恐れません。限られた時間しかない我々は、死から逃げたり、ごまかしたり、後回しにしてはならないと思います。スポーツ競技と武術の相違について触れてきましたが、死との闘いという視点からすれば、武術はスポーツと異なり実践者を撰びません。武術は死んでいない人総てが基本的な対象になり、死に挑む人を励ます効果があります。その価値を会得し、伝えるのが心意倶楽部の目指すべき方向です。もし、私たちが永遠の命を持っていれば、なにもする必要がありません。食事も呼吸もです。そうなってはまさに生ける屍ですね。残念ながら、我々は死があって生きることができるのです。万里の長城を建造した人はそれが分からなかったのです。不死とは実質生きることではありません。

武術は万能ではありませんし、全能でもありません。経済効果もありませんし、家庭不和を取り除く手段にはなりません。限界を知ることは極めて重要です。どんなにすばらしいものであっても盲進/盲信するのであれば武術を司る者とは申せません。武術に使われてはいけません。踊らされるわけにもいきません。限界を知るとは、逆にいえば最大限をも知るということです。武術にできることを最高のパフォーマンスで体現するべきです。日々の実践で求められるのは、その限界の枠を少しずつ押し広げることです。

# xinyi : Jul 9, 2006