| [ エッセイ ] |
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ここに集まる面々に対して、「触れずに飛ばす」という言葉はどんな印象を持たせますでしょうか。すでにお約束のフレーズといった感もあります。ピンと来ない吾人に大雑把な説明をしますと、相手に直接の接触をせずに吹っ飛ばしてしまう技術のことです。日本武術でも「気当て」というものがあるといいます。「百歩神拳」といったほうが分かりやすいでしょうか。ある意味では夢のような光景ともいえます。すでに武術としては最高の境地といっても過言ではありません。そういうことを実際にやっている方々も少なくありません。しかしながら………
今更ながらかもしれませんが、これらは広義の意味での催眠術的な方法が使われていることを指摘しておきます。気功の世界でも摩訶不思議に思われる現象についても、ほとんどが西洋の催眠療法の分野ではごくごく当たり前のことだったりします。意外と科学的にデータが取られたり、臨床的に再現なども可能だったりします。東洋の神秘も、実はヨーロッパのほうが達人の宝庫であったりして、アジア人の専門家には笑うに笑えない実情もあります。詳細についてはまた別の機会にゆずることにしますが、心理療法と武術/気功の関係は面白いものがあります。特に心意では心と体のバランスや調和を旗印に掲げていますので、それらの領域には着目せざるをえません。
「心理戦」という言葉はスポーツ競技ではよく出てくると思いますが、武術ではどうなのでしょうか。ここでは武術の習得において、という枠の話であります。意外と見えにくいのですが、実はそれにやられている人も少なくありません。そう、オレはそんなのには引っかからないぜ、と息巻いてる威勢のいいお兄さんや頭が切れまくる聡明なインテリも、意外と。カルトと高学歴の奇妙な関係にも似たようなことがあったような。触れずに倒す、という極端なケースでなくても、とある穴に落っこちることはあります。というか、ほとんどの人が落ちています。しかし、映画「マトリックス」のように、それは実は違うのではないかと、ちょっとした違和感を覚える世界に気づく人もいたりするのです。
【ケース1】某日本武術の話ですが、志高い青年は時間とお金を使って遠くまで高名な師範の元を訪ねたのです。地元にも教えている教室はあって通ったのですが、彼はどうしても本格的に習得したかったのだと思います。万感の思いを胸に、通された道場には憧れの先生が鎮座しておりました。初対面にもかかわらず、若輩に直接の指導がおこなわれるのです。周りには師範格とおぼしき面々が居並び、緊張もひとしおです。先生は「この腕をつかみなさい」と言われ、彼は真剣に両手で力を込めて掴んだのです。果たしてどんな技が炸裂するのか、両手には期待と共に力が入っていきます。先生の表情がだんだん険しくなります。いよいよ来るか、彼はありったけの力を込めたのです。
話はここで暗転します。別のシーンです。
【ケース2】某中国武術の教室では、今日も練習がおこなわれていました。内容はいつもと変わることはなかったでしょう。ただし、見学者が来ていました。一見して好青年で、礼儀正しく態度も問題なく黙ってイスに掛けて熱心に練習を見ていたのです。その興味深そうな眼差しが、老師の心をくすぐったのでしょうか。練習が終了した後に青年に語りかけたのです。「さっきの動作、どういう意味か分かりますか?」ていねいにも、初対面の見学者に解説を始めたのです。青年もいささか驚いたのですが、中国武術は初めてなのでよく理解できない旨を伝えました。その言葉には悪意も裏もありません。老師はつづけて「では、右拳で顔面を突いてきてください」と青年に手招きしたのです。練習生のみなさんもそのシーンを見ています。青年はちょっと困ったような顔をして躊躇しました。老師は「いいからいいから」と青年を迎えるつもりです。実は彼がプロのキックボクサーであることは見学前に告げていませんでした。
さらにシーンは変わります。
【ケース3】中国某所での、非常に多くの構成員を擁する協会のお偉いさんとの一コマです。自身が編成して、中国全土で競技で採用された徒手拳法の套路(型)を日本に紹介してほしいとの依頼を受けて、写真撮影に臨んだのでした。広い公園の一角で、いかにも中国風といった庭園があり、表演用の服を纏った吾人の動作をつぶさにカメラに収めました。ただし、雑誌には掲載されない可能性が非常に高いことは遠回しにしか言えません。この手の権威は日本のメディアにはすでに通用する時期ではありませんでした。申し訳ないことになりそうなので、なんとかメディアの食指が動くような絵が撮れないか、思案したのでした。そして、思いついたのが、相手を立たせての技法の使い方でした。「ここでいっちょ、凄いとこ見せときましょう」と言ってみると、快諾してくれました。個人的な心境としては、いささか興味がありました。名拳であることは誰もが知っている門派なのですが、相手に対しての戦術や仕掛けは見たことがありませんでした。果たしてどう動くのか、こういうシーンでは叩かれ役が一番おいしいところです。「こちらは動きませんので、遠慮なくやってください」とお願いして、同行した人にカメラを渡します。こちらはとりあえずファイティングポーズで待ちかまえます。距離は約2メートル。意外と静かに接近してきます。ほぼ一足の間合いで足が止まり、発せられたのは。「このあたりに拳を出しなさい」の一言でした。
まずは、この3本で。当事者が特定できないようにしているつもりですが、問題があるようでしたらお知らせください。ここで展開させたいのは、これらのケースの批評ということではありません。単純に善し悪しを判断できません。武術的に見所としては、相手を動きを受けてからの対応を処す戦術を採っています。ちまたでは「後の先」といったりしてますが、厳密には違うと思います。しいて言えば「後の後」です。多くの武術がどうしても立ち止まってしまう壁です。その手の話は別のコンテンツにてんこ盛りですから、このくらいで。
さて、心理戦ですが。これらに共通しているのは、手より口が先に出る、という点です。バカみたいなことを言っておりますが、実は手を交える前にある種の暗示にかかってしまうのが通常なのです。言い換えれば、無意識に履行する「お約束」があるのが、この業界です。教えられる側の加減/わきまえが存在します。個人的な感覚かもしれませんが、経験が長い人ほど技がかかりやすい、というか何もしなくても勝手にやられてくれる傾向があるように思います。特に組み稽古がメインの系統では顕著のような気がします。前段階として、実際の教授で敵意むき出しでは殺伐とするだけで稽古が成り立ちません。ある程度の制限を設けたり、技法を理解させるために条件を呑んでもらう必要があります。問題なのは、約束稽古の一環であることをきちんと認識させないまま、さも実用的である刷り込ませるごとき指導にあります。特に指導する側が常に留意していないと、自己や流派の優位性は保てても育成としては危険さえ伴いかねません。長い時間をかけてくると暗示の効果はしっかり出てきます。まさに無意識に働きかける条件付けの技法として作用しています。
「ケース1」では、主人公がそのお約束に結果的に従わなかったのです。師範に対して畏敬の念こそあっても、悪意で力を込めたはずがありません。結局、師範の腕はほとんど動かず、技もかけてもらえませんでした。「このくらいで」と座を後にしたそうです。その後に彼は事務所に通され、別の人間に「君はここの稽古には向いてないようだ」と入門を断られたのでした、
技法の説明では、説明する相手に対して技を掛けることが当然のようにおこなわれています。これも一種の条件付けです。中国武術の「用法」的説明です。「ケース2」では、老師がパンチを処理できたのでしょうか。青年は請われたからには真摯に対応することにしました。ただし、顔面を叩くわけにはいかないので、鼻先にリードブローを一閃。老師は何もできません。その場にどんな空気が立ちこめたか、想像するのも恐ろしいですが。彼は機転を利かして瞬時に事情を理解しました。もう一回、ということで当たらない距離を空けて突きっぱなしで手を止めたのでした。すかさず老師は彼の突きを捌き、先ほどの技を炸裂させました………「ケース3」では、文面に表れていませんが日本語ではなく、中国語で会話がなされています。意志の疎通はなんとかなっていましたが、もし言葉が通じなければどういうシーンになったでしょうか。まあ、中国でも日本と同じで、お約束の履行が必要のようです。
武術の本義としては、言語のコミュニケーションが先にくるような戦術はありえません。「やあやあ、我こそは!」と敵に向かって口上を垂れる時代であれば通用したかもしれません。教授という特定のシーンなどでのみ通用する、摩訶不思議に思えることがありえます。それも乱暴に括ればコミュニケーションの賜物といったところです。どこかでも述べましたが、武術の実践は教授のシーンがメインではありません。自己の修練がメインになります。微妙なようですが、時間が経てばマトリックスに気づくかもしれません。もしそうなれば、我ら心意倶楽部がブルーピルとレッドピルをもって貴方の前に現れましょうぞ。
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