[ エッセイ ]
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本当は、三千年もない歴史を越えて、強くなるために 《その3》

《その1》と《その2》では、格闘競技での強さは、まずはルールの中で表現されなければならないという、事例を提示しました。プロレスなどの観戦するような興行ではなく、実際に一般に普及させるのであれば、それは社会に対して開かれた方向を目指しているということです。宣伝文句ではいかに過激なことを言っても、その存在を受け入れられるコンセンサス/説得力を追求しています。たとえば通常、小さな子どもがお稽古ごとを習いにいくには保護者の許可と援助が必要になります。教える側がそれらを獲得するのであれば、まさに安心と安全が必要になります。責任というキーワードが登場します。まとめると現代にマッチした「社会性」ともいえるでしょう。言うまでもなく、法治国家では法規の遵守や常識も避けて通れません。

メディア報道でみた、何年か前に実際にあった話です。とある空手道場をやっている人が、近くの某空手教室に道場破りに入ったのです。自分のところには生徒が少ないので経営的に厳しいのか、流派や自己の存在意義を誇示するためか、同業者を蹴落とすためか、その本意はさだかではありませんし、彼が現場でどのような展開を狙っていたのかは、知る由もありません。とにかく先方の指導者や責任者に対して勝負をけしかけたのでしょう。勇ましいというか、なんというか。ただし、ことの顛末というか、さしあたっての結論としては、彼にとってあまりにも非情で悲しすぎたのです。彼はその結果は予想にもしてなかったかもしれません。そう、闘いになることもなく、110番通報されて警察に検挙されてしまったのです………。これもとんだお笑い事件簿みたいですが。少なくとも、この件によって門下生が増えた事実は絶対的にありなかったことでしょうし、当事者の誰もが益を得たとも思えません。警察に通報するというのは、選択としては間違いではありません。しかし、生徒さんによっては「うちの先生は警察に頼った。じゃあ、いつもの稽古で言ってることはなんなんだ」のような声もあるかもしれません。大人向けアニメ、サウスパークの決まり文句「今日、ぼくたちは大事なことを学んだ」と言いたいところです。

武術を学習するときには、その技術が編成された時代や社会を考察したほうがいいと練習会で話をすることがよくあります。理解を広げ深めるといった教養という意味もあります。と同時に、その技術が必要とされた背景を知ることが間接的にせよ、自分自身を/その術を活かすか殺すか、重大な局面の打開を決定することもあるからです。もう1ついえば、現代の自分が置かれている社会や時代を考える必要もあります。本格的に武術を志すのであれば、避けて通れません。勉強が嫌いでも、関係法規などを無視できません。プロと目される吾人はそのあたりを熟知しています。つまり、「いまここで」自分の術を用いるべきか否か、の判断です。上のケースでは、検挙された人が想い描いていたシナリオは、現代の日本で通用することはありえません。想像するしかありませんが、相手を倒せば自分や流派の評判が上がって、入門希望者が増えると考えていたのでしょうか。確かに江戸から明治にかけて時代が激しく動いた時期には、町道場の繁栄がありましたから、道場どうしの試合の結果などで、そのような場合もあっただろうと考えられます。ただし、今の日本社会に持ち込むのは、虫がよすぎるというかマンガチックというか。明らかに社会性の欠如といえます。個人の感情を満たすためであれば、いよいよもって情状酌量の余地もありません。

昔は武士が刀を提げて歩き斬り捨てご免、本人でなくても身内が悪いことをすれば切腹、しかも仇討ちが合法で、物騒で怖かったという日本の近世についてのイメージがあります。中国では以前、治安が悪く物騒なので多くの人が武術を練習して、武術の達人は敵を打ち殺すことも少なくない、という時代があった、みたいな心証があるかもしれません。武術はそのころの産物であったことは事実としても、そういう社会にどのような在り方をしていたか、が重要なのです。歴史学までいかなくても、自身の流派や系統に関する時代/場所については少し検証してみる必要があります。これらについては別のところで。

実は、ケンカとは暴力の応酬が有効とは限りません。子どものケンカであれば、そんなところで折り合いがつけられるかもしれませんが、大人のケンカは相手を殴って倒すと、とんでもない大きな痛手を伴う負けになることが往々にしてあります。闘争の手段として武術を用いるのは、あまり得策ではありません。法律や経済力、情報力などが優位に立ちます。つまり、ケンカにはいろいろとやり方があります。これらは処世術とでもいうべき領域に入ってきます。上の例では、営業能力を磨いたほうがよかったのでは、という商売人的な発想で闘うべきだったのではないでしょうか。

# xinyi : Jan 6, 2006