| [ エッセイ ] |
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中国三千年の歴史などというキャッチコピーが中国関係となれば使われますが、たしか、20年くらい前の某インスタントラーメンのCMのキャッチコピーが元になっているはずです。そんなことは心意拳にはありません。たしかに人類が火を使い、鉄を打つようになった頃には闘争があったでしょうから、戦闘の術(すべ)はあったでしょう。その頃からのつながりがあれば三千年と称していいでしょうが、心意の出現はかなり現代に迫ってのことです。
心意倶楽部の理念としては、実践武術の標榜ということが挙げられます。もう少し違う表現をすれば、生活のなかの武術ということです。もう1ついえば、実践者にとっての武術ということです。なぜ、このような話になるかといいますと、どうも勘違いというか、ずれた方向に走りがちな吾人もいらっしゃるからです。意外と経験や年齢を経た人でもいました。たしかに武術も実践のなかに楽しみや喜びがなければ長続きしません。ただし、それはご自身の実践/自己鍛錬においてのことです。
「けんか空手」「喧嘩殺法」「ケンカ芸」「実戦武術」とはすでに古いキャッチですが、今はあまり使っていないと思います。劇画の世界でしか通用しません。お薦めはできませんが、「けんか○○」と看板を掲げていたところ(年少者部門があれば、特に)に電話して「うちの子どもが習いたいと言ってるのですが、そちらの団体は喧嘩を奨励し、指導しているのでしょうか。それを青少年に教えてらっしゃるのですか」と訊いてみれば、返ってくる言葉はほぼ予想できると思います。たしかに、イヤな奴をぶっ飛ばしてしまえば、すっきりするでしょう。街を歩いていて気に食わない若者を絞りあげて叩きのめすのも、くそくらえの上司をスリーパーでおとすのも鬱憤をはらせるでしょうね。言うことを聞かない旦那を刺すのも………。実際にやっちゃうとたいへんなことになってしまいます。この手の楽しみはありえません。自衛のための行動は否定できませんが、危機管理が楽しくはないですよね。社会性のない武術も格闘技も存在価値はありません。格闘技の世界の方はスポーツであることを、よく分かっています。でなければ普及しません。
「○○に出て優勝してみろ!」といった類いのお言葉も匿名の方からいただくことがよくありましたが、残念ながら、これはどだいムリです。もちろん、スポーツは大好きなのですが、アスリートには向いてません。それはともかく。特定のルールに則ってやるのであれば、専門にやってる人がいい成績を上げるに決まっています。特にスポーツは試合をしてナンボ、の世界ですから、(そのルールの縛りの中で)強い選手がトップにあって当然です。異種というのは新日本プロレスのドル箱でしたが、マッチメークのないスポーツ競技であれば、ルールというのが非常に重要になります。プライドでグレーシー一族がとにかくルールにこだわったのも、その試合のルールが有利かどうか、その点にあります。いい勝負が期待できる拮抗する統一ルールでなければ勝負が成立しない、ということもあります。極端にいえば、ゲートボールとグラウンドゴルフは一見すればよく似ているようですが、プレーヤーにとっては勝負のしようがないのです。一方が勝った勝ったと騒いでも意味がありません。
中国の「散打」競技ルールと、ムエタイのルールもかなり違いますから、選手からクレームが出るまえに試合が組まれないでしょう。と言いながら、映像に残せればレア物は間違いないと思うのですが実際に、山西省で中国散打とムエタイが戦ったことがあります。山西省体育館で、大勢の観客の前で、10試合以上のカードが組まれました。地元の武術隊の人間や武装警察のバリバリの現役選手たちが、タイ人やラオス人のこれまた現役選手と拳を交えたのです。その結果はどうなったと思いますか? ほとんど全部の試合が決着しなかったと記憶しています。いま考えれば、ほんとうに訳が分からないのですが、統一ルールが採用されなかったのです。グローブをはめての突き蹴りは互角としても、接近すればムエタイは膝蹴りを繰り出そうとします。散打は接触すれば投げをうちます。当然、ムエタイの選手は背中から倒れ、同時に観客席からは大歓声が巻き起こります。散打のルールでは大きなポイントです。しかし、ムエタイ的にはポイントでもなんでもありません。その光景が延々と続いたのです。場内は大興奮に包まれても、純粋に勝負を楽しみたい我々は面白くもなんともありません。ラッキーパンチが当たって中国の選手が1人だけノックアウト負けになったのを除けば、時間切ればかりの試合で、勝負にならなかったのです。最後は両サイドの大将格の登場です。さすがにムエタイで世界的に戦ってきた選手だけに簡単には倒されません。こう着状態から投げをうつのと、こらえるのシーンばかりでなぜか最後が一番盛り下がってしまいました。高い金を払って見たものはいったい何だったのか。日本でも、散打は弱いとか向いてないとか言われますが、散打のアスリートが投げを使わず戦うK1でいい成績を収められないのは、ある意味では当然です。強い弱いとは、なかなか測りにくいものでもあります。若い人に多いのですが、「最強の門派は?」などの類いのランキングが楽しい人たちもいます。たしかに中途半端な指導しかできない吾人もいらっしゃるでしょうが、武術が下手でも腕っ節は凄い人もいるので、またまたややこしいですね。
と言いながら、「強くなりたい」という願望は人間の本能的なものだと思います。弱い自分をなんとかしたい、強くなりたい、わかります。武術をやって身に付けば、強くなれるのならがんばってみたいと身を投じることも歓迎されるべきことです。上に述べた内容も加味して考えてみなければならないことがあります。単に「強くなりたい」とお願いされても、難しいのです。「真の強さ」とは? これは次の機会に。
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